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『万葉集』と日本人

  采女(うねめ)の
  袖吹き返す 明日香風
  都を遠み いたづらに吹く (『万葉集』巻1の51)

  昔、宮中に仕えた女官の
  袖を吹き返した 明日香風は
  都が遠のいてしまったので 今は空しく吹いている

古代の都
 この和歌は、都が明日香から藤原に遷ったことを詠んだ志貴皇子の歌です。かつての都の賑わいを思い浮べながら、都ではなくなった明日香を思い、空虚な心のうちを吐露した和歌です。

 現在の奈良県の明日香村に日本の都が置かれていたのは、西暦592年から694年の間の約100年間です。日本の古代の都は、以後710年まで藤原にありました。この和歌は、現在の奈良県橿原市東部の藤原に都が遷ってしまった後の気持ちを、歌ったものです。時は遷り、都は現在の奈良県奈良市に遷ります。この都こそ平城京です。平城京は、約10万人の人口を擁する国際都市でした。奈良に都が置かれていたのは710年から784年までの間です。つまり、日本の7世紀と8世紀の都は、明日香、藤原、平城京へと引っ越しを繰り返していたことになります。古代において大和と呼ばれた奈良県に、古代の木造建築物や美術品が集中する理由は、ここにあるのです。これらの文化財は、世界遺産の指定を受け、現在大切に保存されています。

『万葉集』とは
 この明日香・藤原・奈良に都があった時代の和歌を集めたのが、『万葉集』です。『万葉集』は、奈良時代の終わりに編纂された20巻からなる和歌集で、約4500首の歌が収められています。冒頭にあげた和歌は、『万葉集』に収められている名歌の一つです。都が遷ったことに対する感慨を、我々はこの和歌から知ることができます。それは、紛れもなく1300年前の日本人の声なのです。奈良を訪れると1300年を越える木造建築物に出逢うことができますが、その折りには『万葉集』のことも思い出してください。私は『万葉集』を、言葉の文化財と呼んでいます。それは、『万葉集』がこの時代を代表する文学だからです。あの木造建築物を造った人びとが、口ずさんでいたかもしれない歌を、『万葉集』は現在に伝えているのです。

歌のかたち
 日本における伝統的な詩は「和歌」と呼ばれています。和歌はいわゆる定型詩で、歌句を区切ることに特徴があります。つまり、和歌の一句は五音節か、七音節で構成しなければならないという原則があります。この五音節と七音節の句を組み合わせて和歌を作るのです。例えば、5・7・5・7・7という区切りで作られた和歌は、短歌と呼ばれます。冒頭の和歌も、短歌です。この歌のかたちは、1400年の歴史を経て、現在に伝わっています。また、和歌をもっと簡単にした5・7・5というかたちで作られた詩は、俳句とか川柳と呼ばれるもので、今日1000万人の愛好者がいます。つまり、和歌・俳句・川柳は、国民的文学といえるでしょう。こういった詩のかたちが、形成された時代こそ明日香・藤原・奈良に都があった時代なのです。明日香・藤原・奈良の都があった大和、現在の奈良県が、日本人の心の故郷であるといわれるのは、以上のような理由があるからです。

歌の国、日本
 江戸時代までの日本の知識人は、『万葉集』などの古歌に通じ、その歌の心を解することを、教養の柱の一つとしてきました。例えば、恋愛においても和歌は大切な役割を果たすことになります。好意を持った異性に歌を送り、その贈答を繰り返すことで、はじめて恋愛も成就したのです。文字が普及していない時代には、男女が互いに恋する思いを歌に託して、歌を掛け合いました。日本においては、恋をするにも、歌を作ったり、歌ったりしなければならなかったのです。したがって、若い知識人たちも、歌の手本として『万葉集』を・・・競って学んだのです。

 対して、死ぬ間際には、辞世歌と呼ばれる歌を詠み、別れの挨拶としました。辞世歌を送られた人びとは、それを形見として、故人を偲ぶのです。現在でも、辞世歌を残す人は多くいます。つまり、歌は人と人を結びつける社会的な機能を今日においても有してるといえるでしょう。日本は豊かな歌の国だったのです。
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