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故郷への旅

大きな旅と小さな旅
  『万葉集』に、「マタビ」という言葉がある。意味は、旅のなかでも本格的な旅という意味である。「旅と言えど真旅になりぬ 家の妹が着せし衣に垢つきにかり」(巻二十の四三八八)とある。旅といっても本格的な旅になったきたなぁー、家の妻が着せてくれた衣に垢がついてしった・・・と作者の防人(さきもり)・占部虫麻呂は嘆いている。つまり、衣に垢がつくほどの距離や時間が、「マタビ」の条件なのである。これに対して、自らが耕作している<田>に田植えや、稲刈りのために赴くことも、万葉びとは「旅」と称している。こちらは、万葉びとの小さな旅といえよう。

秋は別れの季節
  平城京に務める律令官人も、実はこういった自らの耕作地への旅をしている。「暇寧令」には、京内の役人が毎年、五月と八月に十五日間ずつの農休みを取ることを保証する条項がある。つまり、田植えの時期と収穫期には、自らの耕作地に下向するための休暇が与えられていたのである。すなわち、この期間は、平城京の役人が「田園に帰る」のである。それも、また万葉びとの旅であった。

   鶴が音の 聞こゆる田居に廬(いほり)  して 我旅なりと 妹に告げこそ  (巻十の二二四九)

これは、「鶴の鳴声が聞こえる田に、小屋を建てて旅寝をしていると、恋人には伝えておいておくれ」という、いわば嘆き節である。恋人と逢えないのは、収穫期には耕作地に下向しているためである。とくに山間の田圃では、耕作地に隣接して小屋を建てて、そこに起居することもあったようだ。それは、鹿や猪に、刈り取り前の稲を横取りされてしまうからである。母親が年ごろの娘の異性関係を見張るように、鹿や猪を見張っていたのである(巻十二の三〇〇〇)。こういった小屋を、万葉びとは「カリホ」とか「タブセ」、「タヤ」と呼んでいる。焼畑耕作の「デヅクリゴヤ」のように、農事に必要なときだけ、泊まるのである。だから、稲の収穫が終わると、壊すこともあったようである(巻八の一五五六)。露や時雨、そして霜に耐えるわびしい生活を嘆く歌が、巻十に多く収載されている。けれども、寒さにましてつらいのは、家族や恋人との別れであったようだ。

天平十一年秋、大伴家の人びと
  しかし、貴族ともなれば、自らの農園を経営しているから、そこには長期の滞在を可能にする宿泊施設を備えている場合もあった。「庄」(=タドコロ)が、それである。大伴家の場合、奈良盆地の南部に「庄」を持っていた。竹田(橿原市竹田町付近)と、跡見(桜井市外山付近)である。この地こそ、大伴家にとっては、父祖伝来のわが故郷であった。対して、平城京には役人として支給された「邸宅」が存在していた。つまり、歴史学が早くに注目したように、万葉貴族は「宅」と「庄」の二重生活者であったのである。大伴家の人びとも、農繁期にはこの地に下向したのである。

  時は、天平十一年(七三九)の秋。まだ、若い家持に代わって、一族の切り盛りをしていた大伴坂上郎女(おほとものさかのうえのいらつめ)も、例外ではなかった。彼女は、十八歳の娘・大嬢(おほいらつめ)を残して、跡見に下向する。十八歳とはいえ、娘が「宅」の切り盛りをちゃんとしてくれるか、不安であったに違いない。案の定、娘から書簡が届いたようだ。それに、答える母の歌。

   [長歌省略]
   朝髪の 思ひ乱れて かくばかり なね  が恋ふれそ 夢に見えける     (巻四の七二四)

古代においては、相手が強く自分のことを思うと、自らの夢に出るという俗信が存在していた。だから、母は娘に諭すように歌ったのである。「おまえさんが、そんなに思うから、夢に見ましたよ」と。大嬢は、「庄」に下向している母に歌を送り、母が答えたのである。残念なことに、「宅」の娘から「庄」の母に贈られた歌は、伝わらない。しかし、その内容は、容易に推定できる。「かくばかり」とは、「そんなにも」であり、たぶん母を恋しがる甘ったれた歌が届いたのであろう。長歌には、「庄」に下向する母を見送る娘・大嬢の姿が描かれているが、あの世に私が行くかのようにもの悲しくあなたは門にたたずんでたいたと、母は歌っている。そんなに、寂しがらないでおくれ、そんなに寂しがると仕事にならないよ・・・という母・大伴坂上郎女の嘆きが聞こえてきそうな長歌である。この故郷への旅は、母と娘の絆を確認する旅になったようだ。
  時に、母・四十歳。天平十一年の秋も少しずつ深まってゆく頃である。

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